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教典(抄)を熟読して信心生活しましょう
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~ 今日のみ教え(8/12) ~
いざという時にはなおのことおかげを受けなければならない みな、おかげをくださいと言うが、果たして本当のおかげを知っているのか。自分の思うとおりを聞いてくださるのがおかげとは限らない。死んでおかげの者もあり、命をつないでもらっておかげの者もある。すべてこの世のことは天地金乃神のご支配であるから、神に任すよりほかはない。信心していれば、その時は都合が悪いようでも、神の仰せにそむかないでいると、後になってから、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかってくる。これがわかるくらいの信心をしなければ、信心するかいがない。 PR
~ 今日のみ教え(8/11) ~
ふだんはふだんでおかげを受けなければならない ふだんはふだんでおかげを受けなければならないが、いざという時にはなおのことおかげを受けなければならない。どのような時にでも、置き場を忘れて探し回ることのないように、信心の心は肌身離さず持っていないと、用心が悪い。いざという時には裸でも、田んぼの中でもよい、「金光様、お願いします」と頼めば、すぐおかげをくださる。
~ 今日のみ教え(8/10) ~
ふだんから 神に取りすがっていれば 神と心安い 信心をしていれば神と心安いのと同じであるから、大難は小難に、小難は取り払いのおかげをやる。これほど信心をしても、まだこのような難を受けると言うのは、真の神徳を知らない者の言うことである。難は人間には計り知れないものである。熱心に信心している者でも、難が強く信心をやめる者がある。信心をして難の根の切れるおかげを受けなければならないのに、難の根よりも先に信心の根を切るのは、やはり真の神徳を知らない者のすることである。信心する者は、真の神徳を知らなければならない。
~ 今日のみ教え(8/9) ~
茶づけでも食べているような心持ちで信心せよ 「今日は少々寄付をしようと思って参りました。よそでは寄付札を立てたりしますが、こちらでは、そういうことはなさらないのですか」とお伺いすると、「あの人がいくら寄付したので、私もこれくらいしなければということになり、それがたちまち神への信心に不浄を入れることになるから、いくら寄付されても、そういうことはしないのである」と仰せられた。「寄付帳とか受付とかはありませんか」と申しあげると、「はい、それもない。神へ供えられるのなら、ただ、さい銭箱に入れておかれても同じことである。金がなければ信心できないとなれば、貧乏人はみな死ななければならない。私の方では、お供えをする物がないといっても、ご神米を下げるのである」と仰せられた。私は大金を持って来たので歓待されるかと思っていたが、調子はずれの話で間が抜けたことであった。そこで、そのお金を出して、「ご普請へ寄付いたしたい」と申しあげると、「はい」といわれ、ご祈念くださった。ご祈念が終わってお結界に下がられ、何も仰せられないでただお座りになっていた。私は心の内で茶づけでも食べよと言われるのかと思っていたが、何のこともなかった。お礼を申して帰ろうとしたら、いつものとおり、「それは、ご苦労であった」と言われただけであった。
~ 今日のみ教え(8/8) ~
何事にも 神にさせていただく心ですれば 神がさせてくださる 神のおかげで生まれてきた人間であるから、死ぬのも神のおかげでなくて死ねるものか。そうであるから、生まれたのがめでたいなら、死んで神になるのは、なおのことめでたいではないか。死ぬのがつらいと言うのは、まだ、死ぬのをいとわないだけの安心ができていないからである。信心して、早く安心のおかげを受けておかなければならない。神のお計らいでは、いついくかも知れないのに、その際のうろたえ信心では間に合わない。平生から、まさかの折にうろたえないだけの信心をしておかなければならない。 |
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